Looking at looking: An introduction to the intelligence of vision.

Parks, T.E.(ed.) 2001 Sage

「知覚は“Intelligent”か?」との問題をめぐって,

 3人のスピーカー

Irvin Rock

J M. Kennedy

R.L. Gregory

が自らの考えを披露し,それらに対し,

3人のコメンテーター

U. Neisser

R.H. Day

T.E. Parks

が批評し,最後に3人のスピーカーが主張の補足を行う.

Stupid perception ? Irvin Rock

非感性的完結化(amodal comletion)

錯視は,それが錯覚であることが分かっても消えない.この事実をもって,知覚はリジッドで柔軟性がなく知性のかけらすらない愚かなものの証のように考える人がたくさんいる.

 図1.1を見ると,他の馬に比べて異常に胴の長いありそうもない馬を,そこに知覚してしまう.とても知的なこととは思えない.しかし,それでもなお私は,ありそうもない馬を見ることが知的処理の結果であると主張したいのである.

 

目はよくカメラに擬せられるが,われわれの視覚経験は,提示された光のパターン以上のものを含むという意味で,カメラとは異なる.

 カニッツァの三角形(図1.2)においても,パックマンは完全な円で,前にある三角形によって部分的に覆われていると知覚する.世の中にある物体はほとんどが不透明で,必然的に後ろの物体を一部分,隠すことになる.そのときわれわれは,背後の物体を切り取られたものとしてではなく,全体性の中に見る.図1.3のbの人物は,aのようにではなく,ある意味において全身を見る.さらに,覆っているもののない図1.4aでは断片図形の散らばりを見るが,bのように覆うものがあればそうは見ない.

 

文脈効果について考えてみたい.図1.5aは,四角形が他の四角形の一部を覆っていると見る.それに対し,bのように文脈を与えると,L型を見る人もいるはずである.文脈は明らかに見え方に影響を及ぼす.

 

しかし,文脈効果に抗して,局所的決定性(local determination)と呼ばれるものも機能する.この効果は強力で,図1.5bに覆われた四角形を見る人も少なくない.図1.6に示したような不可能図形は,“局所的決定性”の好例である.

認知的知性対知覚的知性(cognitive intelligence vs. perceptual intelligence)

知覚は,自らの法則に従う.その結果,ありそうもないものを知覚することもある.知覚の知性は,世界についての知識に基づく意識的思考(=認知的知性)とは異なる.

エイムズの部屋

この点を示すよい例は,図1.8に示すエイムズの部屋である.エイムズの部屋では,2つの錯覚が起こっている.

1. 対面の壁が正方形に見える

2. 対面の壁が視線に対して直交して見える

そこで,対面の壁の左右に1人ずつ立つと,一方が巨人で他方がこびとに見え,一方から他方に歩いてゆくと,人が縮んだり膨張したりする.そんなことは現実にあり得ないと知的には分かるが,そのような知性は見えに何の影響も及ぼさない.このことから,多くの人たちは,知覚はおよそ知的でなく,融通のきかない愚かなものだと考えてしまう.しかし私は,あり得ない事物を知覚することは,知覚的知性の理論を何ら侵さないと考える.認知的知性と知覚的知性は別物なのである.

“偶然の一致”と捉えることの拒否(rejection of coincidence)

引き伸ばされた馬(図1.1)を例に,“よい連続”の原理に従うことがなぜ知的なのかを考えてみよう.知覚系は,名探偵と同じように,目の中で偶然の一致がたまたま起こったと結論づけることを拒む.明るさ・きめ・色などがぴったり同じ像を与える隣接した対象物同士は,異なるものがたまたま一致した性質を示しているとしては捉えられない.“カムフラージュ”は,まさにこのルールを逆手に取っている.

 また,ドアのバタンという音に同期して視覚物が動くと,バタンが原因でその動きが生じたものとして経験される.ある物体が動いてきたもう1つの物体に接触し,それと同時に第2の物体が動き去れば,われわれは前者が後者の原因だと経験する→〈吉村註〉Heider & Simmel

 これらの例はすべて,知覚するために脳が従うさまざまな原理は,網膜像の偶然の一致という捉え方を拒むことを示唆する.たとえば,“よい連続の原理”に従うことは,網膜上で輪郭線がお互い同士なめらかにつながっているとき,それはたまたま偶然の一致ではなく,同一物の輪郭であると知覚者が(無意識に)考えることである.そのような原理ないしルールの源は,おそらく生得的なものであろう(〈吉村註〉Gregoryと異なる).物理的世界の法則性に合致するようにわれわれが進化の中で生き残してきた適応的ルールであろう(〈吉村註〉R.H.Dayと共通する).その意味で知覚のルールは,知的で適応的な様相をもっている.

運動知覚における知性

今日の知覚研究者のあいだでは,運動知覚を網膜像の動きに対する脳の神経発火に基づいて説明する風潮がもてはやされている.“運動検出器”(Hubel and Wieselなど)と呼ばれるものの存在は間違いない.しかし,網膜上で像が動くことは,運動知覚が生じるための必要条件でも十分条件でもない.像の動きがなくても運動は知覚されるし(目の追従運動時には運動対象は中心窩に固定されている),像が動いても運動が知覚されないこともある(位置の恒常性).運動を知覚するかどうかは,網膜像の振る舞いの意味をどう解釈するかに関わっているのである.

仮現運動

仮現運動は,視覚の“問題解決理論”の好例である.ゲシュタルト心理学が現れるまでは,「すべての知覚はある特定の刺激が引き起こす感覚に還元できる」と信じられていた.それに対してウェルトハイマーは,知覚された動きは脳内の事象であり,部分の総和(2点位置での物理的点滅)では説明できない全体性を有すると主張した.

仮現運動の時間変数

2点の点滅が急速すぎると,両点は同時に点灯していたと知覚される.これは,神経の興奮持続(neural persistence)で説明できる.論理的に考えて,点1が点いているときに点2が点けば,点1から点2への動きとの解釈は起こり得ない.

 仮現運動か知覚されるための条件は,次の通りである.時刻1においてある物体が現れ,不可解にも(理由が説明できずに)それが消える.「不可解にも(inexplicably)」と言ったのは,日常生活で事物が視野から消えるのは,物体が動いたりわれわれの側が頭や身体を動かしたりしたときである.息で火を吹き消したり手品のように急に消えることはまれである.仮現運動の刺激事態で次に起こることは,同じ形・大きさ・色の物体がふたたび不可解に近隣の別の位置に突如,現れる.ここでも「不可解に」なのは,日常生活では物体はどこから来たのか説明できないまま突然現れることがないからである.通常なら物体は,覆うものが取り払われたり,動いたり,あるいは見ている人が動いた場合にしか,直前まで見えなかったものが現れたりしない.

 ここで脳は,非日常的事態に直面したことになる.ある物体がある場所に不可解に現れ,不可解に消滅する.そして別の位置に不可解に再出現することをどう説明するのか?単一物が動いたと知覚することは,1つのよい解答と言えよう.

 このように考えれば,2点間の点滅間隔が長くなれば,ゆっくりした運動が知覚されねばならない.ところが実際は,運動は見えず,断続した点滅が知覚される.その理由は次のように考えられる.実際にゆっくりした運動が生じると,位置1と位置2の途中にも動く対象物が見えなければならない.しかし仮現運動では,あいだでの運動物は見えるはずがない.そのことが,対象が動いているとの仮説の強力な反証となる.

知覚的合理化(perceptual rationalization)

図1.2のカニッツァの三角形に戻ろう.主観的輪郭を知覚することもまた,“偶然の一致”と捉えることの拒否に基づいている.黒い不完全な円が3つある.それらはまず,図と地の体制化において,図として見られる(〈吉村註〉初期知覚).しかし,たまたま一致して直線上に並ぶ縁を偶然と捉えることはできず,そろっている理由の説明が要求される.知覚系は,縁のあり方全体をうまく説明する道を要求する.図と地を入れ替え不透明な三角形を図として手前に知覚することにより,円の欠けているわけが完璧に説明できる.これこそ,“知覚的合理化”である.

 このことから,合理化の別の例が得られる.図と地の反転により脳がひとたび中央を覆う三角形を構成したなら,その三角形も見える縁をもたなければならない.しかし,その三角形の内側も外側も同じ白さなので,そのような現象的縁に対する刺激的支持が得られない.そこで,脳は内部の白さが外部より白いという錯覚を創造する.その結果,三角形の縁は可視的となる.こう考えると,主観的輪郭現象に共通して見られる“明るさ効果”は,知覚的合理化の代表的・典型的な(par excellence, Parks, 1989)例となろう.

 私の提案する知覚的合理化とは,進行する知覚過程において,要素同士に一致性がある刺激構造や,事象に意味をもたせたり,矛盾をついたりすることである.主観的輪郭に関して紹介した明るさ錯視は,そのよい例である.この事実はまた,知覚における“段階性”をも支持する.紹介した一連の事実は,視覚がその本性において問題解決的であり,したがって知的であることを指し示している.

このあと,KennedyとGregoryの主張が展開される(省略).

Rockの主張に対する3人のコメンテーターの批判

U.Neisser: Admirably adaptive, occadionally intelligent.

視覚が“知的である”ということの明確な問題点は,視覚がたいへん愚かに思えることが少なくないことである.ロック自身の解説の中にも,次のような愚かさが登場していた.

●他と比べて存在しそうもない胴の長い馬を見る

●そんな線がないと分かった後でも主観的輪郭線を見続ける

●定規で測って同じ長さだと知った後もポンゾ錯視のような古典的錯視を見続ける

●エイムズの部屋では,そんなことがあり得ないと分かっていも人が歩けば大きさを変えると知覚する.

 もし,知覚が推論に基づくものなら,推論を行うホムンクルスはdumbculusである.それに対し,推論に基づかないとすれば,上に示したデモンストレーションは何を表すことになるのだろうか? 私の考えは,知覚は利用可能な刺激情報に依存しており,それ以上のものではないということである.処理は完全にボトムアップ的であり,世界についての知識など影響しない.

 たとえば,エイムズの部屋に対して,ロックは次のように言っている.「後ろの壁が視線に直交すると脳は仮定する」と.しかし,私に言わせれば,そんな仮定は不必要である.エイムズの部屋の中に見るものは—ほとんどの視覚経験の場合と同様に—,観察点からの光学配列なのである.覗き穴の視点から見たエイムズの部屋は,四角形の配置を特定しており,そのためわれわれはそのように見るにすぎない.

 仮現運動についても,ロックの解釈はロマンチックすぎる.彼は刺激の時空間系列の中に運動を見るのは知的な成功物であるとしている.しかし,カニやハエさえ,それを見ている.彼らも知的な問題を解いていると言うのか.幸い,もっと簡単な解釈が成り立つ.問題を解決するのではなく,仮現運動は単なる弁別の失敗にすぎない.ある範囲内で,眼の運動検出器は刺激の継時的な移動と実際運動とを区別できないのである.どうしてか? これまでの視覚系の進化の中で,仮現運動事態を経験してこなかったし,それらを弁別することが生き残るために必要だとの圧力も受けてこなかったからである.→〈吉村註〉この考えでは吉村(2001 p.89)に紹介したロックの仮現運動例を説明できない.また,知覚の愚かさについてロックは,知覚的知性は認知的知性と異なることを指摘している.

R.H.Day: Laurel and Hardy and me.

喜劇映画のコンビL&Hの1930年の映画に『Brats』(底抜けちびっ子騒動)という,彼らが小さな子どもになって騒動を巻き起こすドタバタ喜劇がある.図5.1はその映画の1コマである.ここで,なぜ,彼らか小さくて家具など周りの環境がふつうの大きさに見えるのか? なぜ逆に,彼らがふつうサイズで,家具などが巨大とは見ないのか? この問いに対し,おそらくRock,Kennedy,Gregoryは三者三様の答えを与えるであろう.

 

ロックなら,エイムズの部屋に対する考え方から分かるように,2人の見かけの大きさの縮小は,知覚系の“知性”の結果だと答えるであろう.それがトリックであることや2人が実際には小さくないことを知っていても,知識からは切り離された独自のルールに従う自律的な知覚系が,「小さな人物とかなり大きなイス」という風景を意味していると捉える.しかし,そのルールがどのようなものであるのか,私には明確でない.

 ケネディーなら,「刺激配列全体の中で利用可能な情報を使って」と答えるだろう.彼は“知的な”ルールに従う過程など持ち込まず,おそらくギブソンもそうするように,刺激作用の複雑なパターンの中に答えがあると言うだろう.大きなイスの中にいる2人の人物の小ささは,それに匹敵する明確なパターンへの視覚系の反応を表している.言い換えれば,過去経験などからの知的過程を持ち出さなくても,近刺激パターンのみから,小さな人物と大きなイスを特定することができると答えるであろう.しかし私には,いかなる高次変数がこのような相対的大きさを特定するのか明らかでない.

 グレゴリーは,「知覚は刺激によっては駆動されず,対象物についての知識に基づいて適切に行動できる」と言う.そして,「知覚は過去に蓄えられた知識を使うことでスマートになる」と付け加える.しかし,これだけでは,2人が子どもの服を着ていること以外に,なぜ小さく見えるかを説明することはできない.過去経験的知識の中には,2人が有名なコメディアンでありふつうの大人サイズであるとの,小さく見えることに反する知識もある.トップダウン情報だけではだめで,刺激の中に過去経験からの知識を越えるものが現れていると考えるべきである.

 3者の違いは根深いもので,心理学の歴史に根ざしている.ロックは,法則に従う知覚的知性を強調しつつ,過去経験に基づく知覚とは一線を画している.ケネディは外界の状況を知覚するのに必要な細密情報をすべて含み込んでいる近刺激パターンの役割を重視する.グレゴリーの観点は,刺激パターンの不十分さと意味に基づく知識の役割を強調しつつ,無意識的推論に基づいている.

T.E.Parks: Different bricks, one tower.

ロスが提示したローレルとハーディの映画『Brats』の例は,見ることは問題解決活動だ(少なくとも部分的に)とするロックの説を検討するのによい例だと思う.ここでの“問題”に対する答えの可能性は2つある:ふつうのイスの中にいる小さな人物か,巨大なイスの中のふつうの人物かである.なぜ,われわれは前者の“解決”に至るのか? 私はその理由を,蓄積された過去経験から,普通サイズの家具に囲まれた小さい人物(子ども)という事態はふつうに起こりうることだが,巨大な家具などは見たことがないと告げるからだと考える.もちろんこれは,グレゴリーの強調する“知識”でもある.

 ここで,標準サイズのイスという知識の重要性を吟味するために,L&Hが布など標準サイズの情報を与えないものの上に座っている状況を考えてみよう.そのような状況では,彼らはふつうの大きさに見えるにちがいない.ロックやグレゴリーの考え方が,ここに適用できる.

 ロスの提示したL&Hのスチル写真ではなく,実際に彼らが映画の中で動き回っている事態を考えてみよう.巨大なセットの中で動き回る彼らは,小さい人物のように見え続ける.その理由を心理学者は,われわれの視覚系は,反証が得られない限り,事物を一定の大きさのまま見続けることを選好するためと説明するだろう.自然状況の中では,ほとんどのものは短い時間に大きさを変えることはない.そのため,うまい“当座の推論(first guess)”として,そのような選好を進化させてきた.このような説明はロックやグレゴリーになじむものである.しかし,別の可能性も取り得る.2人の役者を高い位置のカメラから俯瞰で撮影し,彼らが立っている床にはチェッカーボードのような規則的な模様が描かれているとしよう.彼らが動き回るとき,興味深い事実が現れる:画面上での彼らの足の大きさと床の模様の大きさの関係は一定性を保つ.すなわち,“不変”である.画面が変わるたびにその模様を大きくしていけばどうなるだろうか.彼らはどんどん縮んでゆくことになる.これこそまさに,ケネディやナイサーが“高次不変項”の重要性を強調するときに思い描いてることである.この考え方は,ロックらの“選好”による説明と完全に両立する.どちらからでも説明可能なのである.

 ポイントは,本書の執筆者たちのさまざまな考え方が,完全にしかも常に間違っているとならない限り,共存しうるのである.私に言わせれば,どれもが正しい点もあり間違っている点ももっている.問題はそれぞれの考え方がどのようなシチュエーションに適用できるかを決めることである.結局のところ,正確で適切な知覚は,多面的で相互の支え合いの上に成り立つ最終産物なのである.

 ロックの提案に対するナイサーの反論は,次の点を除けば見かけほどドグマ的でない.その点とは,必要以上のメカニズムや仮定を持ち込むべきではないとする“思惟経済の原理”である.これは偏見のない優れた認識論で,われわれの研究領域の健全性を押し進める上でふさわしい考え方である.しかし私には,ロックの提案は,いくつかの仮定がどうしても必要なのだと考えてのことだと思える.たとえば,エイムズの部屋の場合,網膜への光学的投影は,ナイサーも指摘するように,正面からまっすぐに見ているときに得られるものと変わらない.もちろん,ひずんだ部屋の構造である可能性も残してはいる.だがここで,われわれは何らの仮定も用いずに,それらのうちどれを見ているかをどうして選びうるだろうか.

すべてを“知的”と見なしてよいのか?

ナイサーとロスはわれわれの視覚系の活動のほとんどを“知的”と捉えてはならないことを,次の理由から主張している.(a)それが当てはまることがらが限られており,(b)そう捉えても何の助けにもならないからである.確かに,知性というラベルを与えてみても,視覚の機能を詳しく理解するのに何の役にも立たない.ラベルはラベルにすぎない.しかし私には,それが次のような重要な雄叫びのように響く:われわれがこんなにうまく知覚できるのがどうしてなのかを発見しよう!

3人のコメンテーターの批評は,ロックに対してと同様,ケネディやグレゴリーに対しても繰り広げられるが,ここではロックへの批判と対比させるための最小限の記述に留めた.さらにそのあと,本書では,ロック,ケネディ,グレゴリーによる補足的解説が続くことになる.

 

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