Abstract: On the assumption that the writer had logically constructed his/her draft, some important tips for proofing the paper were pointed out. These include avoiding logically complicated expressions, maintaining coherence of meaning, permitting long sentences where appropriate, showing relationships among sentences, and minimizing professional jargon. In short, it is important to be sensitive to point of view of the readers of your paper. As D.A. Norman (1992) said, the efforts of one person (the writer) will save work for a large number of people (the readers).
Key Words: human-interface, paper-writing, proofing, polishing, reader's point of view, coherence
はじめに
新しく入学した学生対象の前期の授業で,学期末にではなく学期中にレポートを課した.200人規模の授業では,学生はたとえ尋ねたいことがあっても授業中に手を上げて質問することはせず,授業終了時にこそこそと教壇のところにやってきて尋ねる.そのような質問は,他の学生にとっても有益な場合が多いので,私は常々,恥ずかしがらず授業中に質問してほしいと頼んでいるが,彼らの習慣はずいぶん強固である.
さて,やってきた学生は,「レポートはどのように書くんですか」と尋ねた.私ははじめ,何枚くらい書くのか,どのような用紙に書けばよいのかを尋ねているのだと思った.しかし,そうではなかった.レポートの書き方そのものが分からないというのである.正直なところ,「何と情けない質問をするのか」と思った.しかし次の瞬間,こんなストレートな問いを投げかけてくる彼らに,「レポートの書き方」をきっちりと講じるべきだと思い直した.
アカデミズムは,うわべや小手先のハウツー的知識を嫌う.「大学は専門学校ではない」という思いは,私の中でもうごめいている.「レポートの書き方」は,ハウツー物の典型であり,それは高等学校までに身につけておくべきだし,そうでないなら,ちまたに流布しているハウツー物で各自補っておいてほしいというのが,教師サイドの言い分である.
しかし,優れたレポート作成のノウハウには,単なる小手先の技術ではなく,大げさに言えば,学問の進め方に関わる技法が含まれている.そう言えないまでも,内容の洗練につながるヒントが満ちあふれている.たとえば,レポート構成力をトレーニングすることは,論の展開法という論文の生命線を鍛える作業にほかならない.
学生から上記の質問を受けて以来,私は新入生への授業での応急処置として,次の4段階でレポートを構成するよう学生に求めている.「授業を通して興味をもったテーマ」を設定し,
1. なぜ,そのテーマに興味をもち,取り上げようと考えたのか.その“理由”と,それを考えてみることの“意義”を訴えよ.
2. 授業やテキストから,そのテーマについてどのようなことを“学んだか”を示せ.
3. 紹介された参考文献や自ら探し当てた文献から,どのような“知見を得たか”を紹介せよ.
4. それらを踏まえ,当該テーマについて,現在どのような“見解に到達したか”を論ぜよ.
という4段階である.特に,3を書くにあたって,自らの考えと文献から得た知見との明確な分離を求める.ややもすると,彼らについてしまう悪癖,すなわち,文献から仕入れた他人の言説をあたかも自分の考えであるかのように議論の中に潜り込ませる態度に対して,徹底した警告を発する.たとえ十分な量のレポートであり,いくら優れた見解が示されていても,この悪癖に基づいたレポートと見なした場合には,最低の評価しか与えないと宣言する.
しかし,このような応急処置しか受けていない学生を育ててしまうと,そのツケは,何年か後,彼らの卒業論文を読まなければならない時点で,私どもに確実に跳ね返ってくる.さらに,院生になった彼らの英文論文を添削するとき,英語以前の問題として覆い被さってくる.
突然,英語論文の話を持ち出して恐縮だが,実は本稿の底流には,日本語論文の作成に当たっても,英語の論文作法から重要なことがらを学び取るべきだという主張がある.ましてや,英文で論文を書く場合には,英語圏の人たちが考えている要件を満たしていなければならない.それは,しばしば英語力の問題と混同されるが,そうではなく,主張の共感的受け入れを期待できない他人に理解してもらうための基本要件なのである.
レポートにせよ論文にせよ,自分に向かってではなく他者に向かって書くわけだから,読み手にとって“分かりよい”ものでなければならない.本稿が目指すのは,どうすれば“分かりやすさ”を実現できるかを示してゆくことである.
“分かりやすさ”を損なう要因は,2つある.1つは,執筆者自身の中で訴えたいことが十分に整理されていないため明確な論理構成が実現できていないことであり,もう1つは,議論されていることがらが複雑なため,読み手に簡単には伝えられないことである.これら2つの難問を克服するには,自分と考えを共有しない人に理解してもらうための努力を惜しまない姿勢が大切である.その心がけをもっている人に向かって,卒論に間に合うノウハウを示してゆきたい.
なお,本稿は,先に著した身の回りの道具に関する“モノ”と“人”のあいだのヒューマン・インターフェイスに関する議論(吉村,1996)を,“書き手”と“読み手”のあいだの文章理解のインターフェイス問題へと展開させたものである.
1節. 主張したいことをはっきりさせる
“分かりやすい表現”の第1要件は,主張の論理を筆者自身が明確に捉え,それを文章構成に具現化してゆくことである.この観点から見て“たちの悪い論文”とは,次のようなものである.あるテーマについての論述をさまざまな角度から披瀝している.しかし,いったい何が主張の骨子なのかが分からない.確かに,あちこちにそのテーマに関する有用な知見がちりばめられているが,個々の記述が論の中でどのような位置・役割にあるかが判然としない.そういう論文である.論文とは,主張したいことがあり,それを明確な論理構造のもとに提示してゆくものでなければならない.
1.1 “誰”に“何”を伝えたいのか
あなたの論文の読者は誰なのか.ここで,“ピア・システム(peer system)”という聞き慣れない言葉を紹介したい.投稿された研究論文に対しては,その雑誌のエディターが複数のレフリーを選定し,彼らに審査を委ねる.そして採択の基準は,レフリーを代表とするその分野の専門家たちから見て価値があるかどうかに置かれる.要するに,専門雑誌に投稿された論文は,専門家集団という仲間(peer)にとって有意義かどうかが問われるのである.その際,読者は限られた専門家仲間であり,ときには世界中で10人にも満たない人たちかもしれない.
翻って,本稿の読者を,私がどのように想定しているかを示そう.レポートや論文の書き方を系統的に学びたい入学したばかりの大学生から卒論を控えた4年生まで,さらには大学院生,そして彼らに“レポート・論文の書き方”指導を行う必要性を痛感している教師の皆さん,それらは心理学分野のみならず,少なくとも人文・社会科学系のすべての分野の人たちと想定している.上で述べた“ピア・システム”のもとでの論文作成とは,ずいぶん異なった事態である.
一方,“何を伝えたいか”に関しても,両者で大いに違ってくる.“ピア・システム”のもとでは,新しいオリジナルな知見であることが,評価の基準となる.レフリーは,投稿者(書き手)の知識のかなりの部分を共有しており,ベーシックな解説は冗長で不要だと見なす.たとえ“ピア・システム”の外にいる人には分かりにくくても構わない.いわば,これまで主張されていないオリジナルな知見であることが重要なのである.
それに対し,本稿のように広い読者層を想定している場合には,“ピア・システム”でトレーニングを受けたことがマイナスに作用する.「分かる人にだけ分かればよい」という姿勢はまずいからである.そこでは,さまざまな知見がどのように整理され,系統立てられているかが焦点となる.すでに提案されている諸知見の調理法と言い換えることができる.たとえば本稿では,“レポートの書き方”に関してこれまで提案されたことのない新しい主張を行うことが目的なのではなく,これまでの優れた提案を取り込んだ系統立った知識の伝授を目指す.あえて言えば,調理法に関するオリジナリティが問われるのである.
1.2 文献引用の問題
さて,ここまでの論述では,1つの文献引用も行わなかった.しかし論文には,文献引用が不可欠である.たとえオリジナルな知見を展開する論文であっても,自らの主張が依拠する,あるいは対立する研究からのさまざまな引用が必要になる.それらが価値ある背景となって,新しい知見のオリジナリティが浮かび上がることになる.それに対し,本稿のような知識の系統化を目指す論文においては,引用される論文に著者の主張の一部を肩代わりしてもらうことになる.そのため,このようなタイプの論述では,いわば“他人のふんどしで相撲を取る”という事態になりかねない.
そこで,文献の引用は,著作権問題と直結する.わが国の著作権法32条1項では,引用について,次のように規定されている.「公表された著作物は,引用して利用することができる.この場合において,その引用は,公正な慣行に一致するものであり,かつ,報道,批評,研究その他の引用目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」.ここに言う「公正な慣行」「正当な範囲内」とは,どのようなものか.それは法解釈の領域に踏み込む問題だが,目安として,引用は「自分の本文が主で,引用部分はそれに従属している」(豊田, 1993 p.130)範囲にとどめるべきである.その際,何より大切なことは,原著者の趣旨をゆがめない引用である.原著書で,「これこれと言われているが,私はそれに反対だ」という記述があるとき,もし「これこれと言われている」という部分だけを引用したなら,それが原著者の意図に反するのは明らかである.
この問題を考えるとき,私は高校生だった頃の国語の授業で書いた作文のことを思い出す.先生に名指しでほめられたという希少な体験なので,いまだにしつこく覚えている.それは,「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」という『学問のすすめ初編』冒頭に登場する福沢諭吉の有名な言説をめぐるものであった.このフレーズは,福沢諭吉が万民平等を説いたものとしてしばしば引用されるが,実はこの少しあとに,「されど今広くこの人間世界を見渡すに,かしこき人あり,おろかなる人あり,貧しきもあり,富めるもあり,貴人もあり,下人もありて,その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と続く.こうなると,権利としての平等よりも,同じスタート・ラインに立っているわけだがら,人たるもの自ら研鑽に励むべしとの主張が,原著者の主眼と見なすべきである.こうした引用文の一人歩きの怖さの指摘が,私の作文の論旨であった.
先に紹介した“ピア・システム”の話に戻したい.学術的専門家集団の中での専門論文では,「公正な慣行」「正当な範囲内」を逸脱した“過大な引用”はあまり問題にならない.むしろ,引用すべき文献を引用していないという理由で批判されることがある.あえてピア・システムにおける“過剰な引用”を言えば,それは,けなすためだけに引用する文献である.けなされる論文が気の毒だからではなく,それが本当に評価に値しない論文なら,他の論文に引用されるという評価点を不当に稼がせてしまうという理由からである.コンピュータによる情報検索システムが発達した今日,“citation index”と呼ばれる一群のデータベースがあり,ある論文がその後の研究にどれほど引用されているかを調べあげることができる.「価値ある論文はその後の研究にしばしば引用されているはずだ」との発想から,お目当ての論文の被引用件数を調べる.内容を不問に付し,数だけ調べるのが,この利用法の限界である.評価に値しないやり玉論文であっても,その論文に着実に被引用点を稼がせてしまう.論の展開の弾みづけに,批判するまでもない文献をステレオタイプに引用するのは控えたいものである.
話を本流へ戻そう.上に示した“ピア・システム”論文とは異なり,広い読者層を対象とする論文や書物では,“節度ある引用”に抵触する危険がある.本稿なども,先学の優れた言説を引用しつつ論を組み立ててゆくが,その際,「自分の本文が主で,引用部分はそれに従属している」という要件が必ずしも守られない.「レポート・論文の書き方」を扱った類書を読んでいると,しばしば大いに触発される優れた見解に出会う.そのようなあれこれを本論に取り込みたいという思いが,当然,沸き起こってくる.私一人の狭い知識と限られた実践に閉じるのでなく,先学の優れた知見を取り込んだ解説を展開したい.そのことは,読者の立場からも,歓迎されるはずである.読者は,著者である私個人の考えではなく,レポートや論文を書くにあたって本当に重要なこと,役に立つことを知りたいのである.書き手と読み手の利害は,この点において一致する.しかし,両者のベクトルが強め合えば,文献への過大な依存→公正な範囲を逸脱した引用へと進みかねない.特に,“自らの主張”の弱いレポートや論文の中には,ノリとハサミを使って文献を切り貼りしただけのものが見受けられる.先学の見解のプライオリティを尊重することと,それらに飲み込まれない独自な考えに立脚した論の展開が,レポートや論文での生命線なのである.
1.3 トピック・センテンスを核として
誰に対して何を主張したいかをはっきりさせ,たとえ先学からの引用が重きをなしていても,論理展開にオリジナリティを発揮して議論を進めてゆこう.こう提案することはたやすいが,実際にどのようにレポートや論文として組み立ててゆけばよいのか.具体的手続きを示してゆきたい.
その際,念頭に置いているのは日本語での文章作成である.しかし,先に予告したように,英語の文章構成法がとても参考になるので,しばらくそちらに目を向けよう.まず,日本人の書く英語論文の特徴として,加藤・ハーディ(1992)が指摘する、“weとyou”問題を取り上げる.日本人は“we”を使って英語を書くのが好きだが,英語を母国語とする人たちは“you” を使うと言うのである.日本人は,書き手である自分と読み手とは仲間だと捉えている.したがって,暗黙のうちに,読み手に共感的理解を求めて,あなたと私を一緒にした“私たち”を使ってしまう.そこには,自分と対峙する読み手が,自分の文章を常に批判的に読み,スキあらば切り込んでくるという意識が弱い.それに対し,“あなた(あなたがた)”と対象化する書き方には,読み手を納得させる根拠を示しながら論を進めてゆく覚悟が読み取れる.ここに,論旨が曖昧なままの議論は許さないという文章作法が生まれる.
論理構造を明確化するには,“トピック・センテンス”に着目するのがよい.聞き慣れない言葉だという人もいるだろうが,これまで私は,この概念の重要さを繰り返し主張してきた(吉村, 1997, 1999).私のみならず,日本語の論文・レポートの書き方を解説した書物にもしばしば登場する(たとえば,澤田, 1983; 小河原, 1996).紙面を節約するため,解説はそれらに委ねたいところだが,それでは読者の要望に反するだろう.そこで,この言葉のエッセンスと,新たに加えたいことがらに絞って解説しておく.
“トピック・センテンス”を理解するには,さらに,“パラグラフ”というものを知らなければならない.パラグラフは,日本語でこのままカタカナ表記されることも多いが,本来は英語の文章単位のことである.日本語文では,“段落”がこれに匹敵するとされている.しかし,英語のパラグラフと日本語の段落には対照性が強い.その点に注目すれば,“パラグラフ”,ひいてはその中核をなす“トピック・センテンス”の理解が容易になる.図1に,パラグラフと段落の対照性を整理した.両者の混同を防ぐため,澤田(1983)はパラグラフに“文段”という訳語を当てている.
図1挿入
図1から見れるように,パラグラフとは,1つのトピックをめぐるまとまりのある文章群のことである.そしてそのトピックは,トピック・センテンスにより“明示”されている.これが,英語の文章作法である.多くの場合,トピック・センテンスは,パラグラフの先頭文として示される.
本稿での私の議論も,このスタイルを採用しているつもりである.試しに,ここまで読み進んできたパラグラフを遡って,各パラグラフのトピック・センテンスを確認してもらいたい.
パラグラフを統括するトピック・センテンスが,各パラグラフの先頭文であるなら,論全体の骨格は先頭の文をつないでゆけば追えることになる.実際,それは可能であり,そのようにして浮かび上がった全体構造の骨組みを“アウトライン”と言う.
実際の文章作成に当たっては,まずアウトラインをつないで全体構造を作っておき,それから各パラグラフを肉づける文章を作ってゆく.骨組みが先にできているおかげで,あらぬ方向へ議論が流されたり,同じような主張が堂々巡りすることを防げる.したがって,読み手にとって,「わき上がる雲のようでつかみどころのない」と評される悪名高き“日本人の書く論文”に陥らないですむ.
以上が,これまでのトピック・センテンスに関する解説(吉村, 1998, 1999)のエッセンスである.トピック・センテンス,パラグラフ,アウトライン,これら3つの用語の意味内容をしっかり把握して文章構成に取りかかれば,論理的展開の要件は整ったことになる.
次に,これまでの解説では指摘してこなかった新たな指摘を行いたい.まず,トピック・センテンスは,当該パラグラフのキー・センテンスとは別物だという点である.すなわち,トピック・センテンスは,必ずしもパラグラフ内で最も重要な主張を行っている文ではない.実は私自身,これまで両者を混同していた.そう思って先学の解説を見直してみると,確かにトピック・センテンスはキー・センテンスとは違う.たとえば,小河原(1996)では,トピック・センテンスの役割は
(1)トピックを限定する.
(2)パラグラフ全体に対するある程度の見通し(予感)を与える.
(3)読者の注意を引きつける,あるいは,少なくとも逸らさない.
とある.トピック・センテンスはその名のとおり,トピックを提示・宣言する主題文であり,そのパラグラフでの言及範囲を限定する文なのである.
次に指摘したい点は,アウトライン構造に関してである.手に入れた材料を使って組み上げてゆく論理構造,すなわちアウトラインは,必ずしも1つに決まらない.「正しいやり方は1つか?」という問いに対しては,「そうではない」と答えたい.ベッカー(1996)は次のように指摘する.
学術論文の作成者は,自分の資料をまとめ上げ,読者が論証の筋道を追うことができ,結論を受け入れられるよう充分に明確な議論を提示しなければなりません.彼らは,それをするには1つの正しいやり方しかないと考えて,つまり,書こうとする論文にはどれも自分であらかじめ見つけておくべき,決まった構造がなければならないと考えてしまって,この仕事を必要以上にやっかいなものにしてしまっています.‥‥
論文(ペーパー)を見直して修正のための提案を私がするとき,学生たちに(そして他の人にも)かかわる厄介なことが,たくさん生じます.私が,これはスタートさせるのにとりあげるとよい,次にしなければならないことは,これこれで,そうすれば,これはとってもいいものになる,と言うと,彼らは口を閉ざしてしまい,恥ずかしそうになり,気を動転させてしまうのです.どうして彼らは,書いたものを変更することに,なにか悪いことでもあると思うのでしょうか? なぜ,彼らは書き直すことにたいして用心深くなってしまうのでしょうか? (p.91-92)
仏師が自然木から仏像を彫るとき,「そこにおわしますみ仏をお出しするだけ」という言い回しがあるが,これを文章作成に当てはめると,材料が整いさえすれば,それらを使ってできる論理構造は自ずと決まっており,それを明確にすることだけが求められているなのだ,と考えてしまうことになる.しかし,その考えは正しくない.上の引用文は,そのことを戒めている.数ある可能性の中から,どのような論理を選びながら組み立てて,最終稿に向かって修正してゆくかが,書き手の行うべき大切な作業なのである.
そのためには,材料の構造化に先立ち,連射法的にアイデアを撃ちだしてゆき,その中から必要な材料を探ってゆくことから始めるのがよい.この作業に充分なエネルギーを投入しておかないと,多義的あるいはひ弱なアウトラインの上に肉付けを行うことになり,途中で破綻を来してしまう.あらかじめ立てた論旨に固執するあまり,無理な議論になったり,書き始めてから論旨の基本的組み替えを余儀なくされて,つぎはぎだらけの展開になったりする.そうならないためには,論理構造をはじめから決め決めにせず,より強い,優れた構造への変更を可能にする柔軟な姿勢が必要である.それは,文章作成前のアウトライン構築段階のみならず,いったん書き上げた文章を推敲してゆく段階においても必要な態度である.
2節. 推敲でなすべきこと
議論全体の骨格ができあがると,いよいよ文章作成に取りかかる.そして,第1草稿を作成する.一般に,レポートや論文での議論は,難しい内容になることが多い.難しい内容を書き表すのに,草稿段階で合格点に達することは望めない.草稿では,論の骨格さえ見えていればよしとすべきである.
そのために控えているのが“推敲”である.思惑どおりの論理展開になっているか,書き手の独りよがりでなく,読み手に理解しやすい表現になっているかを見つめ,修正してゆく.推敲作業を“化粧直し”と考えてはならない.それは3回目以降の推敲に当てはまることであって,はじめの数回は,論の展開の構造自体の修正を伴う大改造作業である.第1草稿の完成を原稿の締切間際にやっと終え,見直す余裕もなく提出する人には,ここから先の解説は無意味である.そういう人は,入稿した原稿が戻ってくると,初稿のみならず二校にも大幅に手を入れ,印刷屋泣かせのルール違反を犯す人である.「はじめに」でも書いたように,本稿の提案は,「自分と考えを共有しない人に理解してもらうための努力を惜しまない姿勢」をもっている書き手にだけ役立つものである.輪島塗職人のように,自分の訴えたいことを何度も何度も上塗りして仕上げてゆくことを喜びとできる人には,ここから先の提案を生かしてもらえると思う.
2.1 書き手1人の努力が多くの読み手を救う
初っぱなから苦言を書いたが,上に示した要件をクリアーするには,1週間に4本も5本も学期末レポートを抱えている状態では無理である.そのような学生は,草稿を提出の前日に書き,ほぼそれが提出レポートとなる.書いて提出することに意味があり,中身を伝えることにそれほど意義を感じていない.われわれは,こういう習慣(悪癖)を大学入学以来,身につけさせられてきた.卒業論文作成までに,ぜひ改善しなければならない.
私は,新入生を対象とした全学部向け授業において,レポートを学期末に課すのではなく,学期中に提出させ,コメントをつけ学期内にフィードバックするよう心がけている.おそらくそれは,彼らが大学に入って初めて書くレポートである.並行して何本ものレポートを抱える中で,やっつけ仕事のように書き散らす状況とは違い,内容以前に,レポートを書くという行為そのものに意欲や疑問を感じる余裕のある時期である.
厳しい言い方だが,読めない状態で提出されたレポートに対しては,内容を理解しないまま評価する権利が,評価者にはあると思う.当然,「読めないレポート」という最低の評価である.しかし,卒業論文となると,そうはゆかない.内容を評価するため,どうしても理解しなければならない.そこでは一般に,1人の書き手に対し,複数の読み手(評価者)がいる.“1対多”の構図が,卒業論文である.本稿の提案を,少なくとも卒業論文までに身につけるべきだと訴える理由がそこにある.
「どちらが働くべきか,書く人か読む人か?」と,ノーマン(1992/1993)は問う.そして,彼の用意した答は,書き手1人の努力が多くの読み手を救うという理由から,書き手に努力を要請するというものである.
何事も心がけだけでは実現できない.分かりにくい表現をどうすれば推敲過程で改善できるのか.そのためには,分かりにくくなる要因が何であるかを知らなければならない.次項から,私が重要と考えるいくつかの要因を示してゆこう.
2.2 厳密であろうとする姿勢から生まれる“分かりにくさ”
哲学書を典型例として,論説文での分かりにくさは,論理に忠実であることを目指しすぎる姿勢から生まれることが多い.本稿の前半で指摘したように,論文とはもちろん,論理的であるべきである.しかし,それを文章表現にまで徹底させると,およそ断定表現ができなくなったり(厳密に考えると断定できない見解が多いため),さまざまな付帯条件のついた持って回った表現に終始することになる.その結果は,内容にぴったりついてゆけない読み手に難解きわまりないものとなる.たとえば,本パラグラフの冒頭文を見てみよう.哲学書をやり玉に挙げ,大胆な言説を述べている.厳密に言えば,「哲学書を典型例として‥‥」という表現は許されない.「こんなことを言い切ってしまっていいものだろうか」というためらいは,当然,私にもある.あれやこれや同僚の哲学者の顔が浮かぶと,ひるむ気持ちはますます強まる.確かに,穏やかな表現に変えれば無難だが,それではインパクトの弱い,焦点のぼけた表現になってしまう.すなわちそれは,読者にとって“分かりにくい表現”なのである.
ベッカー(1996)の次の言葉は,自らの研究領域である社会学者をやり玉に挙げ,この点に言及している.
社会学者は,どのような要素が共に変化しているのかを述べる方法をいろいろともっています.そうした方法のほとんどは,私たちが言いたがっているがあえて言わないでおくことをほのめかす,無意味な表現なのです.AがBの原因であるということを恐れるので,私たちは,「それらが共に変化する傾向がある」とか,「それらは結びついているようである」と言うのです.(p. 32)
ただし,ここは慎重な判断が求められる.論理的に「AがBの原因である」と断定する証拠がない以上,控えめで断定しない表現が正しい.しかし,それと引き替えに,内容のぼやけた表現が連なることになる.論理的に厳密であることと分かりやすさは,ときに相容れない.両者は“トレード・オフの関係”にあると言える.どちらを優先させるべきか.その決断を,ベッカーは次のように下している.
もし,本当に言いたいことなら,「AはBと共に変化する」と言うのは不愉快であるし,「私はAがBの原因になっていると思うし,私の資料はこれらが共に変化していることを示しながら,私のこの考えを支持している」と言うのは,明らかに筋が通っているのです.しかし,多くの人たちは,より強く言明したことで他人に叩かれたくないと思っていて,かわりに,そうした言明をほのめかす表現を使うのです.因果関係そのものは科学的に興味深いことなので,彼らは,因果関係を発見したいにもかかわらず,哲学上の責任を回避したいのです.(ベッカー, 1996 p. 32)
私見を述べれば,データに基づいた議論を行っている場合には,思い切った断定的態度はとれないと思う.データがある知見をはっきりとは支持していないなら,断定的記述は間違いである.多義的解釈を許すデータしか得られてないなら,たとえ論文のねらいがその見解の主張にあっても,結論は留保すべきである.そして,代わりうる解釈も議論に加えるべきである.こうした行為は,もちろん議論の流れを複雑にする.しかし,データに忠実な解釈であることが不可欠である.残された方策は,次項以降で示すように,読み手の理解様式に近づいた視点に立ち,複雑な内容をいかに分かりやすくするか,文章表現の上からサポートすることである.
2.3 意味の結束性と読み手の視点
分かりやすい表現は,懇切ていねいな表現とは違う.このことをまず断っておきたい.内容をかみ砕いて易しく書き表す親切心さえあれば,“分かりやすい”表現が実現できると考えてはならない.スピード感のない,冗長でくどい表現になり,結局,何が大切なのかが伝わりにくくなってしまう.たとえば,機器の取扱説明書においてこうした“ていねいさ・親切心”が発揮されれば,説明書は分厚くなり,早く機器を使いたいユーザーにもどかしさを感じさせてしまう.
「飛躍した説明を避ける」ことは,正しい.しかし,だからと言って“懇切ていねい”すぎる解説であってはならない.では,どうすればよいのか.その答は,文章表現のもつ“結束性”の利用にある.“結束性”とは,文には明示されない,文と文のあいだの見えない結びつきや整合性のことである.文章添削に関する古郡(1999)の著書から具体例を示そう.
文と文は何らかの“装置”(手段)によって結びついている.
太郎は山にいった.水泳をした.
の文間には,その装置がないために,結びつきが損なわれている.
太郎は山にいった.森林浴をした.
では,ある装置が文間の有機的な結びつきを保証している.これを言い換えれば,この文章の文間はその装置によって「結束性」を保っている.
クリントンは電通大を訪問した.アメリカ大統領は講堂で演説した.
も文間が結束している.文の要素である「アメリカ大統領」は,最初の文の「クリントン」と結びついている.「電通大」,「講堂」,「演説」の間にも何らかの“いい関係”がある.(p. 96)
われわれは,文章理解を行うに当たって,文に明示されていないことでも,さまざまな知識や約束事を動員して,行間を埋めながら読み進んでいる.そのような知識や約束事によって支えられた結びつきが“結束性”なのである.
上の例を使って,“結束性”について,さらに理解を深めたい.書き手は,「クリントン」が「アメリカ大統領」であることを,読み手も共有している明示する必要のない知識と見なしている.2つの文のあいだに「クリントンというのはアメリカ大統領です」という文を加えれば,確かにていねいで飛躍のない表現にはなるが,読み手には冗長で煩わしい.文章全体の長さも,これだけで5割増しになる.どちらが適切かは明らかである.
「明らか」と書いたが,もし,小学生を対象に書いている場合ならどうであろうか.書き手の抱いている結束性と,読み手のそれとはずいぶんずれてくる.そこでは,クリントンがアメリカ大統領であることを明示しなければならない.結束性は,読み手に合わせて変化する.
小学生を引き合いに出すのは極端かもしれないが,われわれが本稿で取り上げているレポートや論文の場合にも,書き手と読み手の結束性のずれは深刻である.書き手は,ある知識を踏まえて文章を書き進めてゆく.したがって,推敲に際しても,その知識を前提として“分かりやすさ”を検討する.しかし読み手は,必ずしもその知識を共有していない.このことは,論全体の流れについても,個々の文のつながりについても当てはまる.“分かりやすさ”を求める推敲とは,とりもなおさず,書き手が読み手の視点に近づく行為でなければならない.
またまた,子どもの例で恐縮だが,心理学では子どもの認知発達,特に自閉症児の心の理解を目指して,“心の理論(theory of mind)”というものが提唱されている.簡単に言うと,子どもの示すまわりの人に対する無頓着な振る舞いは,まわりの人たちを意図的に無視しているのでなく,まわりの人たちの心の位置(視点)に立てないことによるのだ,という考え方である.自閉症を解説したフリス(1989/1991)の書物に掲載されている“サリーとアンの実験”を図2に示した.これは,心の理論が獲得されているかどうかをチェックするための仕掛けである.お話を上から下へと読み進み,一番下のコマの問いに答えてもらいたい.皆さんが解答者なら,「サリーはカゴの中を探す」と答えるであろう.「だって,サリーは,アンが移し替えたことを知らないのだから」.もちろん,それが正解である.しかし,サリーの視点からではなく,解答者である自分の視点から離れることができず,「サリーは箱の方を探す」という答も起こりうる.自閉症児には,そのような反応が多いという.この例からわれわれが学ぶべきことは,文章作成において,書き手はサリー(読み手)の視点に立つ“心の理論”をもたなければならないということである.
図2挿入
独りよがりの視点に陥らないための方策は,書いた文章を他の人に読んでもらうことである.その目的は,本稿の論点に照らして,2つある.まず,論の構成自体の善し悪しをコメントしてもらうこと.それには,第1草稿に近い段階で見てもらうのがよい.論の展開の根幹からの変更に関わる指摘は,早い目に受けておくべきである.場合によれば,草稿に先立つアウトラインをダイアグラム表示したものを見てもらうのもよい.指導教官などからの指摘は,この種のコメントが中心となる.それに対し,読み手の視点から“分かりやすい表現”が実現できているかどうかの指摘は,最終稿に近づいてから受けるのがよい.友人や当該テーマにそれほど知識をもたない人からの忌憚のないコメントは,“分かりやすい表現”へ向かう推進力となる.
他人に見てもらう機会をもてない場合は,電車や雑踏の中など集中思考できない状況で自分の原稿を読み直してみるのがよい.頭が少しボーとしていても理解できる書きぶりなら,しめたものである.原稿を書いてから冷却期間を置いて読み直すのも一策である.「よくぞ見直した.自分でもどういうつもりでこう書いたのか分からない」という思いを,私もしばしば体験する.
2.4 悪名高き“長い文”だが
“一文一義の文を書け”という文章指導を耳にする.たとえば,『仕事文の書き方』と題された高橋(1997)の解説書にも,「分かりやすい文章のルール」の1番目の原則として掲げられている.この原則を守ってゆけば,盛りだくさんな内容を1つの文に詰め込まないため,文構造が単純になり,読み手にとって分かりやすい表現が実現できるはずである.多くの人たちが同意する原則であろう.
うがった言い方だが,高橋(1997)は,大学入試の古文の問題における『土佐日記』の“不”人気を指摘する.文法構造,文意とも明快なので,難しい問題を作れないというわけである.考えてみれば,国語の問題に取り上げられる文章は,“分かりやすい文章作法”からみると,問題点を抱えた文章である場合が多い.複雑な文構造で分かりにくい表現であることが,採用の理由になっている.
さて,私は“一文一義の文を書け”との方針は,次善の策だと考えている.難しい論を展開するのに,はたしてシンプルな文を書きつなげただけで表現できるだろうか.『土佐日記』のように,淡々と情景を描写してゆく日記文ならいざ知らず,仮にも読み手にとって耳新しい議論を“一文一義”で書き通せるとは思えない.論説文においては,悪名高き“長い文”を駆使して書き進むことはやむを得ないことである.
“一文一義”を次善の策と考えるのは,単文の連続だと,文と文を関係づけるための補足文や接続語がむやみに必要になるからである.先の引用例を使って説明しよう.「太郎は山にいった.森林浴をした」の場合は,これだけで結束性があるため,2つの文のあいだに補足文や接続語はいらない.しかし論説文の場合には,このような容易に理解できる主張ばかりではすまない.「太郎は山にいった.水泳をした」という,何らかの補足がなければ結束性を保てない主張が続出する.そのとき,2つの文を単文として独立させようとすると,結束性の弱さゆえ,つなぎの文が必要となる.その結果,全体量はすぐに1.5倍となる.それくらいなら,2つの文意を関係づけて1つの文に仕立て上げる方が,よほど“コンパクト”に結束性を保った表現ができる.「太郎は山にいったが,そこで何と水泳をした」.これを「複雑な文だ」として退けるのは間違っている.
2.5 関係性の明示
「コンパクトな表現」が出たところで,昨年受けた英語論文の書き方講習会で仕入れた知識を披露したい.講師の米国キャピタル大学のR. ダイク氏は,そのおり,3つのスローガンを掲げた.“clear”“compact”“show relationship”である.論旨が“clear”でなければならないことは,本稿の前半でも強調した大切な要件である.2つ目の“compact”が,上に出てきた「コンパクト」である.コンパクト化を図る具体例には,次のようなものがある.たとえば,「主節+従属節」という文構造を「主節+副詞句」に縮める.また,「Aの性質の特徴は」という表現を「Aの特徴は」,さらに「Aは」とする.そのような目で見てゆくと,次から次に刈り込むべきところが見えてくる.
“clear”“compact”と解説した勢いで,3つ目の“show relationship”についてもコメントしたい.ついでのように言ったが,この原則は極めて重要である.やはり,英語表現での具体例を取り上げたい.皆さんが,もしちょっとした英文を書く機会があれば,草稿を書き上げたあと,原稿中に登場する“and”という接続詞を総チェックしてほしい.1つ1つの“and”を,本当に“and”でなければならないのかという目で見直すのである.そうすると,ずいぶん多くのものが,ほかの表現に直せることに気づく.そのときは,どちらでもよいのではなく,“and”を避けるべきである.なぜなら,“and”は,前後を結びつける接続詞として最も弱いからである.端的に言って,前後の内容の関係性を示す力をもっていない.これは,“show relationship”=“関係性を示せ”という第3の原則に反する.読み手は,個々の記述の関係性に助けられて,書き手の主張を追ってゆく.記述間の結束性は,文構造に明記された関係性により補うべきなのである.
具体例で説明しよう.たとえば,「A条件の結果はPであった.“そして(and)”,B条件結果はQであった」と書かれていたとしよう.この“and”は,A条件とB条件の結果を併置しているにすぎない.このとき,もしA条件の結果の平凡さに対し,B条件結果は予想に反するものであったという思い入れがあれば,A条件結果を“Athough”という接続詞などで従属節化することにより,両者の関係性を明示することができる.あるいは,そこまでの差別化が強すぎるなら,“While”という接続詞を用いてアクセントづけするのもよい.いずれにせよ,何らの差別化も行わない“and”は避けよ.この提案は,英文のみならず日本語での論文作成に当たっても有益である.たとえ,文構造が多少複雑になっても,これにより,書き手の意図が伝わり,読み手の理解は格段に促進されることになる.
言うまでもないことだが,示された関係性は,書き手の“独りよがり”であってはならない.書き手は,自らの思考の流れの中で文章を生み出してゆく.いわば,書いている文の周辺はサーチライトで照らされている.しかし読み手には,そのサーチライトは見えない.A条件結果に比べ,B条件結果がなぜ強調されなければならないのか.書き手には自明なことでも,読み手にはピンとこないかもしれない.もしそうなら,“独りよがりの関係性”と言わざるを得ない.目指すべきは,サーチライトの共有化である.そのための1つの方法は,書き手のサーチライトを読み手にも示すことであり,もう1つは,読み手の心の動き(メンタル・モデル)に沿った表現を実現することである.前者を成功させるには,書き手は頑健な結束性に基づく議論を展開するのがよい.もし,結束性が弱いなら,その内容を外在化させて強化する.後者の場合には,読み手が要所要所で抱く疑問や考えを先取りした(読み手のメンタル・モデルに合致した)解説を行ってゆく(この内容は認知心理学がさまざまな角度から取り組んでいる大問題であり,簡単に処方箋を示すことはできない.ジョンソン=レアード, 1983/1988 などを参照してもらいたい).これらの条件を満たす表現が,“分かりやすい表現”となる.
2.6 専門家らしい書き方
「初学者には専門書を読むことは難しくて当然」という意見は,ある程度正しい.しかしそれは,内容にとどめるべきであって,表現にまでそのような居直りは許されない.難しい内容ならなおのこと,表現上の分かりやすさを工夫すべきである.
この点に関して,ベッカー(1996)の次の取り組みは示唆的である.それは,彼が指導していた大学院生との学位論文の手直しをめぐるやり取りから生まれた.院生の名前は,ロザンナ・ハーツと言った.彼女は,先生であるベッカーが自分の論文の草稿を手直ししてくれたおかげで,「ずいぶん改善された—より短く,より明確に,全体としてよりよいものになった—」ことを認めた上で,先生の手直し全体を統括する原理が分からないといういらだちを示した.そこで2人は,手直しがどのような一般原理に従ってなされたかを明確化する作業に取り組むことになった.一連の作業の中から,ハーツが“上等な書き方”と呼ぶものがクローズアップされた.ハーツは,次のように言う.
学術研究者の書き方が退屈なものであることを私は個人的には分かっているし,自分の時間を小説読みに費やす方が好きなのですが,学術的エリート主義は,どの大学院生にとっても自らの社会化の一部となっているのです.私が言いたいのは,学術的な書き方が,英語の書き方で書かれているのではなく,専門集団のメンバーだけが読解可能であるような書き方で書かれている,ということです.‥‥私はこのことは,エリート主義における集団間の境界を維持する方法であると思います.‥‥期待されていることは,いろいろな考えが,訓練を受けていない人には難解に思えるような体裁で書かれるということなのです.これが学術研究者の書き方なのです.それで,もし学術研究者でありたいなら,この書き方を再生産することを学ぶ必要があるのです.(p. 68-69)
最初に断っておかなければならないが,このような点を反省するからと言って,専門家は“上等な書き方”を完全に放棄することはできない.たとえば,得られているデータがある見解を断定するには不十分なとき,「‥‥であることを示唆する(It suggests that ...)」という便利な表現を使用する.この表現法を曖昧だとして拒否するなら,議論展開はずいぶん不自由になる.先輩たちが発明してくれた便利な表現を,専門論文でわれわれは享受しているのである.
しかし,“上等な書き方”には,改善すべき点も多い.たとえば,ある用語の概念規定を論文冒頭で行っておき,その後の解説ではいっさいその用語に説明を加えないとしよう.確かに,このような書き方は論理的には正当であり,冗長さを避けた“上等な書き方”である.しかし読み手が,1度だけの解説でその用語の意味内容を記憶にとどめたまま最後まで読み通せるとは思えない.読み手の視点に立って必要と思われるところには,適宜,簡単な解説(冒頭の概念規定を呼び起こさせるに足る)を加え,“分かりやすさ”を維持すべきである.
“上等な書き方”の難点は,命名作業(ラベリング)においても認められる.たとえば,ある実験条件を「‥‥という条件を条件Aとする」と命名して,データ解説を進めるとしよう.しかし,「条件A」というのは恣意的な命名であり,Aという記号には,その条件の意味内容を連想させる力はまったくない.このようなAやBやCがちりばめられた解説を読んでいると,読み進むうちに内容の理解は希薄となり,気がつくと読み手はただ字面を追っているだけということになってしまう.「条件Aとは,‥‥である」という定義のもとに議論を組み立てているわけだから,論理的には“上等”である.しかし,“分かりやすい表現”という観点からは,「‥‥」の中身を連想させるような命名を心がけるべきである.
おわりに
学生・院生諸君が在学中に身につけたよい文章作法は,社会へ出てからも大いに役立つ.学究生活のみならず,企業に入っても,企画書や報告書の作成は大切な通常業務となる.そこでは,「書くこと」よりも「読まれること」「理解されること」が重要になる.そのとき皆さんが身につけたものが“上等な書き方”に象徴される文章作法なら,それをご破算にすることからやり直さなければならない.そのような余裕が,その時点の皆さんにはたしてあるだろうか.在学中に“分かりやすい表現”の能力を磨いておくことが,どれほど有利かは明らかである.
企画書・報告書・レポート・論文などいずれにおいても,分かりやすさを飛躍的に促す要素として,優れた視覚表現がある.図や表,イラストなどを駆使して,主張の中核部分をプレゼンテーションする傾向は,今日ますます強まっている.心理学と視聴覚教育をベースにしたそのような取り組みを別稿(吉村, 1999)で行ったので,関連書として奨めたい.ここでは,藤沢(1999)の『「分かりやすい表現」の技術』からの図を引いて,本稿の締めくくりとしたい.
図3挿入
図3に示すように,書き手は,読み手の“脳内整理棚”に近づけた表現を行うべきである.それにより,読み手の“理解のためのエネルギー”(=整理作業)はずいぶん助けられる.“分かりやすい表現”とは,文章表現のみならず,図的表現をも駆使した,書き手と読み手のあいだの優れたヒューマン・インターフェイスのことなのである.
引用文献
ベッカー, H.S. 佐野敏行(訳)(1986/1996)論文の技法 講談社学術文庫
フリス, U. 冨田真紀・清水康夫(訳)(1989/1991)自閉症の謎を解き明かす 東京書籍
藤沢晃治(1999)「分かりやすい表現」の技術—意図を正しく伝えるための16のルール— 講談社ブルーバックス
古郡廷治(1999)文章添削トレーニング—8つの原則— ちくま新書
ジョンソン=レアード, P. N. 海保博之(監修)(1983/1988)メンタル・モデル—言語・推論・意識の認知科学— 産業図書
加藤恭子・ハーディ, V.(1992)英語小論文の書き方—英語のロジック・日本語のロジック— 講談社現代新書
ノーマン, D. A. 佐伯胖(監訳)(1992/1993)テクノロジー・ウォッチング 新曜社認知科学選書
小河原誠(1996)読み書きの技法 ちくま新書
澤田昭夫(1983)論文のレトリック—わかりやすいまとめ方— 講談社学術文庫
高橋昭男(1997)仕事文の書き方 岩波新書
豊田きいち(1998)編集者の著作権基礎知識[改訂版] 日本エディタースクール出版部
吉村浩一(1996)知覚環境論からみたヒューマン・インターフェイス問題 社会環境学研究(金沢大学社会環境科学研究科), 創刊号, 1-17.
吉村浩一(1998)トピック・センテンスということ 人文・社会科学技術とツール[増訂第2版](金沢大学文学部人間学科編), 117-122.
吉村浩一(1999)図的に心理学—視聴覚教育への視座— ナカニシヤ出版
図の表題
図1. 日本語の「段落」と英語の「パラグラフ」の対照性(吉村,1998より)
図2. “心の理論”を調べるための「アンとサリーの実験」(フリス,1991より)
図3. 書き手によりあらかじめ整理された情報は読み手にとってしまいやすい(藤沢,1999より)