吉村浩一『逆さめがねの左右学』(2002, ナカニシヤ出版 1800円)


まえがき

 逆さめがね—目の前の視野が逆さまに見えるめがね—を着けて生活すると,どのようなことが起こるのでしょうか.皆さんは,おそらくこんな荒唐無稽なことを考えたことはないでしょう.この本の著者である私は,そんな問題をもう30年間も見つめてきました.

 少し哲学を勉強した人なら,この問いが哲学史上の重要問題であったことを知っておられるかもしれません.「われわれの網膜には,外界の逆転像が映っている.その像を通して,われわれはなぜ正立した外界を知覚できるのか?」という問いです.改めて問われると,「なぜだろう?」と不思議に思う人もいるかもしれません.でも,「そんな問いはナンセンスだよ.生まれたときからずっと逆転網膜像を通して外界を見ているから,それが当たり前で,網膜像が逆転していること自体には何の問題もないよ」と冷たくあしらう人もいるはずです.実は,私も,そう考える1人です.網膜像を心の中の別の眼が見ているわけではないので,網膜像が逆転していること自体には何の問題もないのです.

 逆さめがねの世界のおもしろさは,実はもっとほかのところにあります.しかし,その話の解説は,本書の目的でありません.それについては,『3つの逆さめがね[改訂版]』や『逆さめがねが街をゆく』という別の本で,十分に語ってきました.特に,『逆さめがねが街をゆく』では,逆さめがねを2週間着け続けて東京の街を歩き回った被験者の様子を,絵や写真をふんだんに織り交ぜて解説しました.逆さめがねの世界に興味をもたれた人には,ぜひ読んでもらいたいピクチャーブックです.

 さて,ここまでに“逆さ”という言葉が,何度か登場しました.皆さんの多くは,“逆さ”と聞けば,“上下がひっくり返って見える世界”を思い浮かべると思います.確かに,それも“逆さ”の1つです.でも,“逆さ”には,それだけでなく,3つの種類があるのです.目の前の視野像の上下だけが入れ換わる“上下反転”,左右だけが入れ換わる“左右反転”,そして上下も左右も入れ換わる“逆転”です.3つ目の“逆転”は,正常な視野像を180度ぐるっと回転させたのと同じことで,正常視のときの外界と網膜像の関係はこれに当たります.

 3つの中で,上下の入れ換えを含まない“左右反転”のことを,一番つまらない逆さだと考える人が多いと思います.確かに,目の前の風景が左右入れ換わっただけでは驚くような映像にはならず,今までと同じようなふつうの風景が見え続けます.しかし,それがくせ者なのです.正しい視野像と区別しにくいことが,かえってその世界での生活を混乱させるのです.見えている映像を本当のことだと信じ込んで,とんでもない失敗をしでかしてしまいます.「右に寄りすぎて危ないから,次の一歩を左に踏み出そう」などと考えて,本当に左に踏み出そうものなら,大事故になりかねません.

 そのような左右が逆さに見えるめがねを2週間着け続けた私自身の経験が,さまざまな左右問題を考えるきっかけになりました.この本では,そのような副産物を集めて表舞台に登場させることを目指します.視野を広げていろいろな左右現象を探ってゆくと,たくさんの興味深いトピックに出会います.そしてなぜか,それらは逆さめがねの世界と結びつくのです.

 そこで,本書のタイトルを『逆さめがねの左右学』と名づけました.私は,1986年から隔年ごとに,左右反転めがね,逆転めがね,上下反転めがねをこの順序で,夏休みの2週間,着けて生活しました.そして,そのときの体験を,さまざまな左右問題と重ねてみました.皆さんには,話の中に登場するさまざまな左右現象を楽しんでいただくのもよし,不思議に思って考え込んでいただくのもよし,日常の左右現象に新しいインスピレーションをもって再会していただけることを願っています.

 世の中のさまざまな左右現象に取材した本書を執筆するにあたり,多くの方々から貴重な情報や助言をいただきました.特に,鏡映像の反転問題に対してクリアな説明を提案されている大阪府立大学名誉教授で放射線物理学がご専門の多幡達夫先生には,鏡映像問題についてコメントをいただいただけでなく,本書の原稿すべてに目を通して貴重なご助言を頂戴しました.また,方泉處ホームページを運営しておられた東洋鋳造貨幣研究所の工藤裕司所長からは,古銭の左右問題についてのコメントと,所蔵されている貴重な「左跳元」のお写真を頂戴しました.さらに,利き手問題に関して,フェリシモ左利き友の会,とりわけ大路直哉さんから利き手に関する有用な情報をいただきました.これらの皆さんに対し,心よりお礼を申し上げます.

 本書の出版は,これまでの逆さめがね関連の拙著と同様,ナカニシヤ出版にお願いすることになりました.編集部の宍倉由高さんと営業部の中西良さんにお世話になったことをお礼申し上げます.

 最後になりましたが,私が言い表したいと頭に思い描いたイメージを,逆さめがねという表現しにくい題材であるにもかかわらず,巧みに多くの挿し絵として描いてくださった川辺千恵美さんにお礼申し上げます.『逆さめがねが街をゆく』以来,川辺さんの描く逆さま世界は,同じ逆さめがね体験者として,私の要求を見事に実現してくれるものでした.読者の皆さんにとっても,川辺さんの絵が本書の理解を格段に進めるものと確信しております.

2002年9月

吉村浩一




目 次

1 さまざまな左右論 1

 〈物質・生命・身体をめぐる左右論〉 2

 〈社会・文化・芸術をめぐる左右論〉 3

 〈両グループのあいだに広がる左右論〉 4

 〈心理学と左右論〉 5

2 左右の発生 7

 〈方向の発生順序〉 8

 〈スペースシャトル〉 10

 〈上下がないもの〉 12

 〈向きと形〉 13

 〈固有的定位〉 14

3 「左」「右」という言葉 17

 〈左右の混乱は言葉が仲介〉 18

 〈「左」「右」のない国〉 20

4 逆さめがね生活での「左」と「右」 25

 〈逆さめがねを着けるとどうなる?〉 26

 〈視野の動揺〉 28

 〈「左」と「右」の言葉遣い〉 29

 〈正常視の人たちとのコミュニケーション〉 30

5 地図の中の左と右 33

 〈チベットの人たちの認知地図〉 34

 〈鉄道路線図の左と右〉 36

 〈街の看板地図〉 44

6 逆さめがねと認知地図 47

 〈左右逆さめがねと認知地図〉 48

 〈眼上鏡式上下反転めがね〉 51

 〈まさに土竜図〉 53

7 誰にとっての左右なのか 55

 〈脳の断層写真〉 56

 〈眼から抜け出た視点〉 58

 〈再び脳の断層写真〉 60

 〈コインの図柄の左右〉 62

 〈道標の左右〉 63

 〈沢登りの左右〉 66

 〈左右概念の発達〉 68

8 絵の中の左と右:時間の流れとの対応 71

 〈グリュンワルトの空間図式〉 72

 〈西欧絵画の過去と未来〉 73

 〈日本絵画の過去と未来〉 74

 〈縦書きと横書き〉 75

 〈『逆さめがねが街をゆく』のエピソード〉 76

 〈美術館での鑑賞「順路」〉 79

9 利き手の問題 81

 〈利き手検査〉 82

 〈利き手分布の一極化〉 85

 〈利き手と半球機能差〉 86

 〈左利き花盛りのプロ野球界〉 89

 〈左利き禁止のスポーツ〉 89

 〈お稽古ごとでの左利き所作〉 90

 〈書道での左利き〉 91

 〈左利き有利の技能〉 94

 〈利き手と左右認知の混同〉 95

 〈利き手判断は直感的〉 96

10 逆さめがねと利き手問題 99

 〈利き手判断テスト〉 100

 〈鏡の前で片手を上げる〉 102

 〈自己受容感覚変更説〉 104

 〈“親近性”の変化〉 108

11 鏡像問題の迷路の中へ 111

 〈鏡像にならない鏡〉 112

 〈幾何光学的には単純明快〉 114

 〈鏡の左右反転は心理学の問題?〉 116

 〈“キラル”と“アキラル”〉 116

 〈似て非なるもの〉 118

 〈物理学的検討〉 120

 〈“固有的定位”をもつ対象物〉 123

 〈“逆転”と“反転”という用語〉 125

12 逆さめがねと鏡の問題 127

 〈鏡を用いた上下反転めがね〉 128

 〈直角プリズムも鏡面を利用〉 131

 〈見えている自己と感じられる自己〉 133

 〈前方に見えている人との重ね合わせ〉 134

 〈足もとに見える自己との重ね合わせ〉 136

 〈再び鏡映像の左右反転問題〉 137

13 逆さに見れば 141

 〈常識をうち破る〉 142

 〈逆さまの日本地図〉 143

 〈陰影も逆さになった地図〉 145

 〈縦のものを横にする〉 147

 〈枠組みの問題〉 149

14 逆さまイマジネーション 151

 〈和製『鏡の国のアリス』〉 152

 〈H.G. ウェルズの2つの小説〉 159

 〈裏返しの美女〉 165


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